Who is the mastermind?

歴史学において、当事者及び該当事項と同年代の資料を1次資料、それから伝聞に基づく物を2次資料、やや時代が過ぎて作られた資料を第3次資料とされている。


1次資料を見る限り、石田三成と徳川家康は友好的な関係ですね。


代表的な根拠は、石田三成の嫡男、石田重家の名付け親は徳川家康。


ところで、歴女の中で石田三成の人気は高いですね!その理由は分かりますよ!


関ケ原という大戦を仕掛けて、豊臣家を守ろうとしたんですからね。


ところが、関ケ原の西軍の首謀者は石田三成ではなかたんじゃないか?


という説が少なからずあるのだ!


えー!マジー!


その根拠だが、家康への弾劾状、すなわち「内府ちかいの条々」に石田三成の署名はないのだ。


当時、石田三成は五奉行の座を追われ、佐和山に謹慎していたのだから、公式文書に署名できる立場ではないですね。


署名がないからと言っても、三成が考案したのかもしれない。


また、大谷吉継を佐和山に招いて、必死になって説得した。とされているが、


話が出来すぎている。当時においてもフレンドシップという概念はあったであろうし、


三成と吉継は友情という絆で結ばれていたであろう。三成が吉継を説得したかもしれない。


しかし話が出来すぎている。


関ケ原の西軍の集結について、家康の反応だが、1次資料によると、「大阪奉行衆別心」と記されている。


すなわち、大阪の奉行衆が心変わりしてしまった!と記されている。


すなわち、石田三成が挙兵した!という反応ではないのだ!


やっぱり怪しいですね!


それでは、石田三成が関ケ原首謀者のでないのなら、誰が首謀者なのだろう?


首謀者はいなかった!という説がある。そんな事はないだろう!


石田三成でないのなら、大谷吉継が有力ですね。


文中に記したが、三成から説得されたのではなく、必死になって石田三成を説得したんじゃないですか?


結論を出すにはもう少し研究が必要でしょうね。


いずれにしても、関ケ原の西軍の首謀者は石田三成であったかもしれないし、


そうではなかったかもしれませんね。


花のがくと










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