Do you know his real name?

禁門の変において、長州藩が会津、薩摩の連合軍に敗北し、幕末の勢力争いから、長州藩が


大きく後退した時、長州藩のスタッフの多くが、草履の裏に、「薩摩!」と記していた事実


に対し、会津と薩摩の連合軍に敗北したのだから、草履の裏に記すのなら、「会津と薩!」


とするべきだ!という私の意見は正論だ!とする意見は大半だ。


ここで山口県の人の弁明を記そう。禁門の変が発生する時、長州と会津、幕府軍は拮抗して


いた。残るは薩摩藩の動向、薩摩は会津側に加担するのか、静観するのか、微妙だったとの


事。すなわち、最終局面において、薩摩が会津側に付いたことで局面が変わったのだから、


薩摩!と草履の裏に記した、との事。


明治維新のターニングポイントである、薩長同盟は、長州側からすれば、秘密軍事同盟、


薩摩側からしたら、リップサービスだという研究者もいる。


ところで、明治維新の最大の功労者は誰か?といえば、一致するところは、西郷隆盛だ。


異論はあるまい。しかし読者諸氏は西郷隆盛の本当の氏名をご存知だろうか?


本当の名前は、西郷隆永だ!この事実は、西郷の子孫にあたる人物により公表されている。


それでは何故、西郷隆盛になったのだろう?


次のような経緯があったようだ。明治5年か6年頃、明治維新の功労という事で、西郷に


位階を与えようという事で、文書を作成したところ、誰もが西郷のファーストネームを知ら


なかった。そこで、西郷の父親である隆盛、という名を文書に記し、西郷に送ったところ、


西郷はその位階を辞退しようとした。「隆盛」で来たのだから、隆盛で返却したところ、


西郷隆盛という事で、世間一般に知られるようになった。


当時の風習や住民台帳またその代行サービスの有無、等を勘案したとしても、


いい加減ですね!と感じるのは私だけですかね?


やはり注目されるのは西郷のファーストネームを誰も正確に認識していなかった、という事


ですよ。ちょっと驚きますよね!


やはり、西郷や大久保、桂などは下級武士であり、操られ、踊らされていた、という側面は


あるんじゃないですか?


それでは操っていたのは誰?という問題が発生しますが、私は外国の勢力、という奇想天外


な事を言うつもりはないですよ。


考案するに、やっぱり関ケ原で敗北した上級武士たちの怨念が、時代に乗り移り、西郷達を


突き動かしたという側面は否定できないと思いますけどね。



花のがくと






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