His motive!
今、確信している。そして断言できる。
関ケ原の合戦の真の首謀者は石田三成ではない。
この事は度々ブログに記している。その根拠だが、石田三成の子息のネーミングの背景、
徳川家康への弾劾状の署名構成、合戦直後にける徳川家康の反応、
これらを判断する中において、石田三成を西軍の首謀者とするのはどうしても困難だ。
それでは真の首謀者は誰か?どう考えても、真っ先に候補の挙げられるのは、大谷吉継だ。
彼しかいないだろう!
大谷吉継の出自はやや不明だ。ただ秀吉に引き立てられ、有能で爽やかな人物だったようだ。
ただ、石田三成のように5奉行として存在していたのではなく、
豊臣政権の中枢からはやや外れていた感がある。病気であった事が原因のようだ。
1次資料を分析すると石田三成と徳川家康に関家は良好だった。
そして大谷吉継と家康の関係も良好だった。
それなら、関ケ原の合戦が何故発生したのか?という問題が重要だ。
つまるところ大谷吉継の心理すなわち動機だ。
大谷は秀吉の子飼いとはいえ、政権中枢にはいなかったのだから、
豊臣政権死守というスローガンは響かない。
大谷の心理と動機は、また違う次元にあったと思う。
つまり当時の政局を分析する中で、家康の存在は極めて保守的だったのだろう。
現に徳川家康の政権掌握により、徳川幕府とそれによる幕藩体制の確立と鎖国が
完成した。
これらの全てが悪である、とするのは困難であるが、
それにより日本全体の縮小化と世界政治の遮断、すなわち世界政治の潮流から、
日本は自ら外れる事になった。
上記したが、当時の情勢からするなら、その選択も1つの有効な選択肢であったかもしれぬ。
しかし長期的なビジョンからすれば、結論は論ずるまでもないだろう。
大谷吉継を初めとする諸将は、皆その事を理解できたと思う。
誇大妄想的考えではないと思う。
秀吉の海外派兵は約7年、諸大名が世界情勢を知るには十分すぎる期間であると思うし、
戦国大名を江戸期の大名と同質に捉えるのは間違いであると思う。
前者の方がスケールは圧倒的だと思う。
しかし結果として、当時の日本人は家康を選択した。
日本人全体が疲れていたのかもしれぬ。
いずれにしても、大谷吉継の心理と動機は、日本の縮小化の阻止と世界政治との関係性の遮断の回避に重点があったのだと思う。
そうでなければ説明が付かない。
加えて述べるのなら、大谷は病気であったゆえに、
秀吉の遺児、秀頼の成長を待ってはいられなかったのだろう。
自らの寿命と家康の寿命と比較する中で、この時と決めたに違いない。
花のがくと
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