Alternative!

関ケ原の合戦が発生する直前、石田三成は居城である佐和山で奉行を辞し謹慎していた。

その時、徳川家康は三成に中立的な人物を使者に立て、「一旦政局に異変があれば、徳川にご加勢をーー」との要請をしている。

それに対し、三成は名刀を使者に手渡すことによって答えている。

おそらく、大谷吉継にも同様の行動がなされているはずだ。

これを芝居あるいは駆け引きというふうに分析する人もいるが、

関ケ原の合戦の直前まで、大谷も石田も徳川家康と圧倒的に友好的な関係にあったのだからら、芝居ではないのではないか?

また上記の行為がなされていたならば、豊臣政権から徳川政権になったとしても、

大谷と石田もその中で存在価値が有する。

従ってと豊臣政権が崩壊すると同時に、大谷、石田らの官僚達が立場を失う、という分析は成り立たたず、

また関ケ原の合戦に意義を、豊臣政権死守という形のみで、分析する事は困難だ。

違う次元の問題があったと思う。

先の記事にも記したが、日本の縮小化と世界政治の潮流の遮断を行うか否かの2者択一の問題が存在してたと思う。

そしてこの命題は織田信長が覇権を拡大し、それらが達成されていく頃に、

当時の日本人の大きな命題として横たわっていたと思う。

当時はスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス等が世界の覇権を競っていた。

そしてその事実を知らない日本人はいなかっただろう。

それではその状況に日本はどうすれば良いか?答えは2者択一だ。

日本の縮小化と世界政治の遮断、すなわち鎖国について、以前、約1000年続く名家の人と話し合った事がある。

当時の日本の鎖国の実行について論理的整合性がある、との事だった。

当時日本は銀と金の最大の産出国であった。すなわち世界最大の外貨準備高の国。

また鉄砲伝来は西洋人から模倣したが、瞬く間に世界最大の鉄砲の生産国になった。

また雨火縄といって、雨の日でも鉄砲が使用できる鉄砲を生産できるようになった事実がある、との事。

すなわち、当時の日本は世界最大の外貨準備高を誇り、世界最大のハイテク国家であり、

世界最強の軍隊を有していた世界有数の国であったのだ。

それゆえ、当時の日本は鎖国政策を実施しても当面の問題はなかった、という話だった。

確かに理解できる。

しかし、世界政治の潮流と遮断し、鎖国政策を行う事は長期的ビジョンに立つなら、

結果は明らかだ。

関ケ原の合戦の意義は、日本をどちらの方向性に動かすか、2者択一の問題提起であったと思う。


花のがくと





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